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20th Anniversary Story 霧島酒造オープン20年の歴史
Sep 13,2021

誕生。そして確立。

 そもそも、なぜ山間にビーチが生まれたのか。
 そのヒントとなったのは、都城出身のオリンピアン・瀬戸山正二氏が出場したアトランタ五輪だった。1994 年から始まった国内ツアーを始め、ビーチバレーボールの会場といえば『海辺』が通例だ。しかし、海辺でなくても砂を運べば、そこはビーチ化する。
 今は当たり前となっている都市型ビーチの発想を、霧島酒造はこの時やってのけた。都城・北部を流れる高崎川の砂を工場の敷地内に運び、日本史上初めて山間の中にビーチが誕生。こうして公式戦となる「ジャパンサーキット宮崎大会」の歴史がスタートした。

 第1 回大会に出場し同年のシドニー五輪に出場し4 位入賞を果たした高橋有紀子は言う。「当時のワールドツアーでは内陸で開催されていることもありましたが、日本では初めてでした。とても斬新だった記憶が残っています。シドニー五輪後、コート横にパネルも飾っていただき、胸がいっぱいになったことを今でも思い出します」

 日本ビーチバレーボール初のオリンピック入賞の後押しをした「ジャパンサーキット宮崎大会」。2001 年以降は、プロ選手が活躍する時代に突入していく。当時、日本のトップを走っていたのは白鳥勝浩・渡辺聡ペア、徳野涼子・楠原千秋ペア。そんな彼らに対抗すべく、2002 年以降はインドアバレーのスターとして輝いていた朝日健太郎、西村晃一、田中姿子、浦田聖子らがビーチバレーボールに転向を果たした。

まだスタンド席が導入されていなかった2006年大会

 彼らのデビュー年となった2003 年は、豪華な顏ぶれが都城に集結。若き時代から取り組んできたプロ組と転向組のデッドヒートが繰り広げられる構図へ。ジャパンサーキット宮崎大会は、国内最高峰のツアーの一角として確立していった。

進化。

 2000 年代中盤に入っても、現在のようなツアーのサテライト大会やアンダーカテゴリーの大会は存在していなかった。若手選手にとって「ジャパンサーキット」は登竜門だった。霧島酒造での公式戦は、九州のビーチバレーボールの普及を担うようになり、このコートから何人もの若手が羽ばたいた。その1 人がのちに日本の社会現象として旋風を巻き起こした浅尾美和である。彼女の出現によって、霧島酒造での大会は進化を遂げていく。

「ジャパンサーキット」も2005 年から「JBVツアー」として名称を変え、2007 年には工場内のコートから工場入口すぐそばの敷地へコートを移転。観客席を有料化しコート数も練習用コートを設置し3 面へ増やした。
「ビーチの妖精」としてテレビや雑誌でブレイクした浅尾美和が出場するとあって、会場には122 のメディアが取材に集まり話題を呼んだ。またこの年、宮崎県知事に就任した東国原英夫氏も初めて観戦に訪れ、大きな話題を呼んだ。

ビーチの妖精がブレイクし取材を受ける西堀/浅尾ペア

 2007 年から大会窓口を担当するようになった霧島酒造株式会社の細山田浩二は言う。
「当時はメディアや一般の方からコートに関する電話のお問い合わせが多かったですね。その年からコートを移設することになり、建設業者とコート数を検討、床面の深さに合わせてボラ土と砂を敷く手配、排水やシャワールームの設置等、選手の皆さんに心よくプレーしてもらうにはどうしたらいいのか、何度も検討しました」
 その期待に応えるようにオリンピックイヤーとなった2008 年には、まるでワールドツアーを彷彿させるような15 段にものぼるスタンド席が出現。ハイレベルなパフォーマンスを惜しみなく発揮した日本代表ペア(白鳥・朝日、佐伯・楠原)は、1996 年以来男女そろって北京五輪に出場を果たした。

新時代――。

 名実ともにスポーツ競技として育っていったビーチバレーボール。2009 年以降は、「霧島酒造オープン」の冠大会となり、新時代に突入する。ベテランの背中を追い続けてきた浦田聖子が2010 年大会で初優勝、鹿児島出身の新鋭・日高裕次郎が初の3 位に入るなど、続々とニュースターが誕生した。

 さらに「霧島酒造オープン」は進化を遂げていく。東北のビーチに甚大な被害を及ぼした東日本大震災を受け復興支援大会として開催された2011 年大会では、初の外国人選手が参戦。アメリカからやってきた刺客、ケーシー・パターソン、ヘザー・ロウは、西村晃一、草野歩とそれぞれペアを組み、決勝進出を果たすなど大会を盛り上げた。のちにパターソンは、2013 年のワールドツアーで優勝。「霧島酒造オープン」は世界チャンピオンを輩出するグローバルな大会となった。

アメリカのトップ選手として活躍しているパターソン

 2012 年には北京五輪に続き、朝日・白鳥ペアがロンドン五輪に出場。そしてこの年に長年ビーチバレーボール界を支えた朝日、浅尾が現役引退を発表した。2003 年大会から毎年出場してきた朝日健太郎は「海のない都城市で大会をスタートさせた霧島酒造オープンは、日本ビーチバレーボールの歴史を大きく変えました。この大会は、ウイットにとんだスピーチをしてくれる江夏社長と再会できる大切な場所でした」と思い出を振り返った。

2020 東京へ

 2013 年大会最終日の早朝。奇しくも7 年後のオリンピックの開催が東京に決まった。ロンドンでは観戦チケットが最も売れた競技として人気を集めたビーチバレーボール。会場はお祭りムードに包まれたが、ここを境にして2016 年リオデジャネイロ五輪、2020年の東京五輪に向けて出場権争いが展開されていく。
 新たなトップシーンをけん引したのが、2013 年から2015 年大会で3 連覇を果たした熊本出身の畑辺純希。女子では西堀健実・溝江明香ペアが2013 年、2014 年とペアで連覇を達成した。

 そうして刻々と東京五輪が迫る中、2017年には男子バレーボールを16 年ぶりに五輪に導いた越川優、石島雄介がビーチバレーボールに転向。女子ではV リーグで活躍した長谷川暁子、二見梓、橋本涼加ら有望選手が次なる主戦場としてビーチを選んだ。

商売繁盛ボトルを贈呈する江夏社長

 個性に富んだ新戦力は早速、霧島酒造オープンで大器の片鱗を見せつける。越川、石島は2017 年、2018 年にそれぞれ準優勝、二見・長谷川ペアは2017 年大会で優勝に輝き、チャンピオンとしてその名を刻んだ。

 20 年もの間、日本のビーチバレーボールを支えてきた霧島酒造オープン。ひとつひとつの大会を終えるたび社長の江夏順行は、出場選手、そして来場者へ、人情味あふれる言葉を送ってきた。
 その内容は、霧島酒造株式会社とビーチバレーボールの未来に向けたものだった。ビーチパークの隣、志比田第二増設工場の建設もこの場で告げ、黒霧島EX の発売時には五角形のパネルも登場。ユーモアたっぷりの江夏の挨拶に会場は笑顔に包まれ、それはフィナーレの風物詩となった。

 そんな風景が思い起こされるこの20 年。霧島酒造とビーチバレーボールはともに歩み、前へ進んできた。20 周年記念大会はまさに、両者の成長の軌跡、そのものである。

◎この記事は2019年9月に開催された「第20回霧島酒造オープン20周年記念誌」の「20thAnniversary Story」に掲載されたものを転載いたしました。

取材・文/吉田亜衣(BeachvolleyballStyle)

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